三太夫の「おれのいうことは正しい」

「株式投資」「将棋」「動物」をこよなく愛する頑固なひねくれ者の悠々自適な晴耕雨読生活

“Let It Be”


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「変わり者」である私には、一般的に浸透している「見た目にこだわる価値観」がほとんど理解できません。

あるがままの状態を否定して、現状を変更したいと考える価値観が受け付けられないのですが、

たとえ表面的には自分の好きなように変更できたとしても、

その下の地の部分は元のままであるという事実は受け入れられるのでしょうか。

まさにメッキにしか過ぎないので、気持ちが悪くてしょうがないのでは?

 

片腹痛くてしょうがない欧米崇拝思想で髪や目の色を変えたり、

顔に熟練職人顔負けの左官作業を施したり。

 

外見の印象だけで判断しても、何もしない自然な状態の方が全面的に好ましいと思うので、

人工的な変更については見苦しい、醜いとしか感じません。

ですが、本人は好き好んでその作業に手間とお金を費やしている訳ですから、

私にとっては、全く価値観の相容れない宇宙人を見ているような感じです。

 

例えば「禿げること」でも。

なぜか髪の毛が少なくなっていくことを忌み嫌い、その感情が激しすぎた結果、

冷静で客観的な判断ができなくなっている人が多いのではないかと思ってしまいます。

あくまで私の個人的な想像ですが、所謂「バーコード」とか「落ち武者」状態にしている人は、

髪の毛が無くなった部分を隠したい、残っている髪の毛を大切にしたいと思いつめるあまり、

客観的には「みっともない」と形容して良さそうな状態に、自ら陥っているのではないでしょうか。

 

以前から私も少し髪の毛が少なくなってきていますが、

別にとりたてて負の感情はなく、数年前から坊主にしています。

一部分の髪の毛が少ないのであれば、坊主が一番バランス良くすっきりしますから。

 

「禿げ」を糊塗するほう助ビジネスが成り立っているくらいなので、

禿げることを忌み嫌うエネルギーは相当なものなのでしょう。

しかしそもそも、それだけ自分の見た目に囚われずにはいられないということは、

他人を見た目で判断していることの裏返しではないでしょうか。

「禿げている人を見ても、別にみっともないとは思わない」という価値観であれば、

自分の髪の毛への異常な執着も生まれない筈です。

 

分野が全然違いますが、トイレの個室に設置されている「音姫」という装置も同じことだと思います。

大きい方の用を足す時に、音が出てしまうのは至極当たり前です。

この当たり前の生理現象を恥ずかしく感じるということは、

裏を返せば、自分が他人のその音を聞いた時に、少なからず嘲りの感情を抱いているということでは?

それではまるで、校舎では大便をできなかった小学生ではないですか。

トイレの個室に入ると友達に冷やかされるなんて、小学生だからこそ許されるお馬鹿さです。

それとほとんど同じレベルの思考に、多くの大人が囚われているというのは驚きです。

もっと落ち着いた素養を身につけたいものです。