スポーツ選手などが抱負として「感動を与えられるように」と発言するのをよく見かけます。
あまりに頻繁に耳にするので感覚が麻痺している気がしますが、この表現は、あまりにおこがましくていただけません。
「感動を与える」という表現は、感動させた側でも感動した側でもなく、それを見ている第三者からの傍観表現ではないでしょうか。
「感動してもらえるように」ならば、まだましかもしれませんが、感動を「与える」というのは尊大すぎます。
そもそも「感動を与えられるように意図してやっている」というのをわざわざ伝えてしまうのは、
「あざとさ」を表出させるだけで、一利も無いのでは?
また、「感動を与えられるように」という言葉が飛び交うインタビューの場面でもう一つ気になるのは、インタビュアーの拙悪さ加減です。
そのほとんどが、事前に質問を吟味してきたとはとても思えない内容で、
そんなことを聞いて誰が喜ぶのか、理解に苦しむ質問のオンパレードという印象しかありません。
答えようの無さのあまり、相手に苦笑される光景も良く見ます。
私は、イチロー選手の求道者を気取っている感じがあまり好きではありませんが、
拙悪なインタビュアーに対して不満を持っているのは共感できます。
そういったひどい内容のインタビューについて、テレビ局などは聞き手のお粗末なスキルを問題視はしていないのでしょうか?
ものすごく見苦しいので、是非改善を望みたかったのですが、
残念ながら一向にその兆候が見られないまま、私の方のスポーツ観戦への興味が衰えてしまいました。