先日、サッカーの試合での時間稼ぎが話題になっていました。
私の印象では、この時間稼ぎに対する是非は半々か、あるいは是の方がやや多かった気がします。
この時間稼ぎ「戦術」の精神は、甲子園で星稜高校の松井秀喜選手に対して行われた5打席連続敬遠のそれとほぼ同じだと思います。
どちらもルールの範囲内で「勝利(リーグの勝ち抜け)」を至上命題に据えたプレーです。
このプレーに対して、今回のサッカーの場合は、客を楽しませ満足させるべき「興行」である点、
甲子園のケースでは「教育の一環である学生の部活動」であるという点から、その見苦しさに批判が出ました。
時間稼ぎと敬遠は、ほぼ同じ精神に基づいているのにも関わらず、
時間稼ぎには一定数の賛同がある一方で、
松井選手の敬遠については、当時、是という意見はほぼ皆無だったと記憶しています。
今回のサッカーに当てはめると、セネガル=松井選手、日本代表=明徳義塾となりますが、
甲子園のケースに倣えば、99%はセネガルへの同情となる筈です。
ところが、実際はそうはなりませんでした。
その理由は、世間が日本代表(=明徳義塾)に肩入れしているという「下地」があったからに他なりません。
今回、時間稼ぎを是とした人は、果たして明徳義塾の敬遠をも是と言えたでしょうか?
当時は明徳義塾批判一色でしたから、おそらくはそちらに乗って批判していた筈です。
つまり、贔屓のチームだからという理由で、プレーやその精神の是非を判断する基準が揺らいでいるということです。
日本代表を応援していながら、あの時間稼ぎを非とした人は、極めて思慮深いと思います。
因みに私はというと、もちろん時間稼ぎ否定派なのですが、
その前に「下地」の条件を満たしていないので、評価の対象外でした。
時間稼ぎを是とした人とは真逆のケースですが、私情が入ったことで時間稼ぎを非としたという可能性を排除できません。
そうではなく、冷静に判断していると思いたいところではあります。
蛇足ですが、いきった態度が鼻につくので特に嫌いな日本代表の選手が「サムライスピリットで」と発言しているのを見ました。
「侍」の精神は、時間稼ぎを是とする精神とは対極にあるように思います。
同じサッカー界での「なでしこ」もそうですが、全くふさわしくない形容詞を軽々に使用しないでほしいものです。